栗橋宿散策

前回日光街道埼玉六宿の幸手宿、栗橋宿 2宿の散策を予定していましたが、幸手宿で手間取ってしまい栗橋宿は今回にずれ込んでしまいました。

本日(H29.10.4)の参加者7名。天候はまあまあ、いざ出発。最初に旧栗橋町(現在の久喜市栗橋総合支所)の観光課に向かいました。

教育文化センター「みらい」に集合

外見、かなり古そうな建物が125号線沿いの陸橋の下にあり、”おっととっと行き過ぎてしまいました。狭い道を支所に向かい踏切を渡って支所に着きました。

駐車場に入るとパトカーが違反車の検閲をしており、グループの皆さんがきっと踏切の一時停止違反で捕まったんだと噂していました。これから先 気をつけヨ!

支所では丁寧に説明をしていただき、ご担当の方ありがとうございました。(日光街道宿場めぐり・・栗橋宿7のMAPを参考に)

玄関の脇に血圧計が有り私が測定をし、クイズで高・低の数値を当てた人は昼飯をおごる約束をしましたが、誰も当たらず残念。(私はニンマリ!)

久喜市栗橋総合支所

初めに八坂神社に向かいそこの境内に駐車をして約3時間半の街歩きです。八坂神社は利根川土手の端に有り、栗橋の関所跡と道を挟んで建っています。

八坂神社:栗橋地区の鎮守 拝殿前には阿吽の狛犬ならぬ「狛鯉」とも呼ばれる鯉の像があり、鯉が浮かぶ波間に刻まれた亀も、神社の縁起に由来しています。

八坂神社

八坂神社にお参り

ご神木

説明板の内容

神社の歴史をさかのぼっていゆくと古くは社殿が建築されない時代がありました。祭りは野外で行われました。人々は神が降臨するのにふさわしい清浄なところに神々の座となる樹木や岩石を選び定めてここに神々を招ぎまつり神人和楽の営みである祭りをしました。
神を祭る大切な場所は多くの場合神々しい森であり、その森の中で最も生命力に溢れた立派な樹木が神座となりました。
この伝統は社殿が作られ「鎮守の森」として大切にされてきたのはそのためです。昭和六十一年に埼玉県朝日新聞社によって「埼玉県自然百選」に選ばれ、つづいて埼玉の緑を守る条例に基づいて「八坂神社社叢ふるさとの森」と指定されました。
特に神社の北側にあるケヤキは約三百年にもなるご神木です。
平成三年六月吉日

境内の大イチョウから銀杏の実が沢山落ちているので、まずは銀杏拾い(約1名)。その臭いこと!

境内には、水準点の標識もありました。

また境内には、ガラスが割れてテープで補強した建物の中に立派な神輿が保管されておりました。

この神輿は、八坂神社の夏祭り(神幸祭)の神輿で、「天王宮神輿文久三亥(1863)十月吉祥日」の棟札が、昭和45年(1970)の解体修理の時に発見されました。台輪の大きさは、四尺六寸五分(141センチメートル)、高さは六尺五寸(197センチメートル)あり、関東では大きな神輿の一つです。
神輿は、永年にわたり渡御が続けられ多くの人たちに親しまれてきました。特に、明治19年(1886)、利根川鉄橋が完成し、明治天皇が行幸したおりには、河中で渡御し、勇壮な神輿振りが天覧に供されたと言い伝えられています。  (久喜市ホームページより)

栗橋関所跡:現在護岸工事の真っ最中で元の場所からやや離れたところに石碑が建っている。また、案内板は元の所にありちょっと面食らってしまう。次は、利根川土手のからし菜摘み(約1名)。きっと美味しいかもね!

説明板の内容

栗橋関所 跡 『房川渡中田(ぼうせんわたしなかだ)・関所』

埼玉県指定旧跡 昭和三十六年九月一日指定

江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道と国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲で勤めた。関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達(いえさと)の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。

昭和六十年七月  埼玉県教育委員会

栗橋町教育委員会

栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地にあり「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで東海道の箱根、中山道の碓氷と並び重要な関所であったという。

栗橋関所跡にて(後ろの道路が国道4号線)

日光街道を焙烙地蔵を目指して歩きます。

道路脇に昭和22年のカスリーン台風 実質浸水深1.9mの赤テープが表示されている電柱が何本もありました。

脇本陣 虎屋:現在は本陣は無く、脇本陣虎屋、と蝶屋とがありましたが、今は店舗も新しく、虎屋の新しい看板がありました。途中、浄信寺、顕正寺を見学して焙烙地蔵(ほうろくじぞう)へ

ここ栗橋では、七福神ならぬ八福神が祀られています。(七福神プラス吉祥天)

焙烙地蔵(市指定文化財):関所破りを企てた者が、重罪人として火あぶりの刑に処された場所と言われている。こうした多数の処刑人を憐み、火あぶりになぞらえて供養のため焙烙地蔵を祀ったものという。

説明板の内容

『栗橋町指定文化財 焙烙地蔵
昭和五十三年三月二十九日指定
むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。
また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている』

深広寺:二代目住職によって、南無阿弥陀仏の六字六面が刻まれている供養塔(市指定文化財)高さ360cmで、承応3(1654)~明暦2(1656)の間に20基建てられ、その後1基追加され21基あり、壮観の一言。

供養塔(市指定文化財)

その後、栗橋駅に向かい、左折して約15分歩く。駅前は狭いけれどもモダンな感じの駅舎に皆が感心しました。

駅の手前に静御前の墓があったが、皆さんお腹が空いたので先に食事をしてから見学しようということになり、栗橋駅前に出る。食後、静御前の墓を見学。

静御前の墓:1静女之墓 享和3(1803)、2坐泉の歌碑 文化3(1806)3静女塚碑 明治20(1887)その他義経招魂碑、静女所生御曹司供養塔

悲しい運命に翻弄され、義経を追って奥州平泉へ向かったが、義経の死を知り京に戻る途中病に倒れ栗橋の静村で生涯を閉じる。 文治3(1189)没。

源義経の内妻であった静御前の墓と伝えられています。 静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日に当地で亡くなったと言われています。当地には高柳寺(こうりょうじ)と呼ばれる寺があったので、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられました。

高柳寺はその後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めています。

当地には静御前の墓が残されましたが、墓に墓標がなかったため享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代であった中川飛騨守忠英により建立されました。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。(久喜市ホームページより)

静御前の墓

駅から近道で八坂神社へ戻る途中で、名もないそこそこ大きな池があり亀が日向ぼっこ。我々の話を聞いて7~8匹の亀が寄ってくる。縁起がいいかも? 後で宝治戸池(ほうじどいけ)と判る。

香取神社の銀杏:戻りながら寄る。イチョウの木の”太いこと太いこと”下に銀杏の実。 そこで、関所番士屋敷跡があり 誰かが せきしょばん しやしき あとと読んで大笑い、ああ面白い。

香取神社の銀杏

そんなこんなで、八坂神社に戻り行田に向かいました。帰りにファミリーレストランによりお茶して解散する。

次回は、日光街道埼玉六宿の内の杉戸宿を予定しようかなと思います。

一つだけ残念なのは、幸手宿と栗橋宿の中間にある一里塚跡に行けなかった~!

5期 寺田、田村(記)