「武蔵国忍藩 松平家の歴史と忍郷友会」15周年特別講座が開催される。
行田市民大学・同窓会15周年特別講座「武蔵国忍藩 松平家の歴史と忍郷友会」が2025年1月16日(木)に行田市総合体育館グリーンアリーナ2階研修室で講師に旧忍藩第16代当主松平忠昌氏を迎えて開催されました。
松平家について
1.松平家の家祖は松平忠明(ただあきら)
奥平八郎信昌(奥平家第15代)と亀姫(徳川家康の長女)の第4子として天正11年(1583)新城城にて誕生。
20歳、慶長7年(1602)に「三河作手(つけで)城」、28歳「伊勢亀山城」、
元和元年(1615)33歳「大坂城」、
元和6年(1620)38歳「大和郡山城」、寛永16年(1639)57歳「播磨姫路城」を拝領
2.2代「忠弘」寛永8年(1631)生、忠明の長男
14歳「播磨姫路城」家督相続、18歳「羽州最上城」、38歳「宇都宮城」、51歳「白河城」、62歳「山形城」を拝領 天眼寺開基
3.3代「忠雅(ただまさ)」天和3年(1684)生、忠弘嫡子清照の長男
8歳「山形城」家督相続、16歳「備後福山城」、正徳元年(1711)28歳「伊勢桑名城」を拝領
4.4代「忠刻(ただとき)」から9代「忠堯(ただたか)」まで桑名城主
5代「忠啓(ただひら)」、6代「忠功(ただかつ)」、7代「忠和(ただとも)」、8代「忠翼(ただすけ)」
5.9代「忠堯(ただたか)」享和2年(1802)生
19歳「伊勢桑名城」家督相続、文政6年(1823)21歳「武蔵忍城」転封、領地三処替(三方領知替え)、天祥寺に葬られる
6.9代「忠堯(ただたか)」から明治維新まで忍城主
10代「忠彦(たださと)」
11代「忠国(ただくに)」
天保12年から文久3年隠居までの22年間藩政を行い、この間に江戸湾防衛、品川第三台場の警備などの任にあたっている 新政府への恭順を決定 天祥寺に葬られる
12代「忠誠(ただざね)」
7.13代「忠敬(ただのり)
憲安政2年(1855)生 米沢藩主上杉斉(ときのり)の6男
14歳、明治2年(1869)忠誠の養子として家督相続、最後の忍藩主、廃藩置県となり、初代忍県知事
8.14代「忠壽(ただひさ)」明治15年(1882)生
38歳、日露戦争より凱旋、忍郷友会創設(1905年)
9.15代「忠晃(ただてる)」大正3年(1914)生
松平家 *天正16年に徳川家康の外孫(養子)となり松平姓を許され、将軍家継承第四位を賜った徳川家連枝の家系 *徳川家親藩として要衝の地に封ぜられることが多く、忍城に封ぜられてからは江戸湾の防衛を任された *在府親藩として「参勤交代」を免除されていた *江戸城内では「溜間(たまりのま)詰」を拝命(将軍の側近)
奥平家 第62代村上天皇を祖とした家系
天眼寺 延宝6年(1678)に2代目忠弘の奥方「藤姫」(細川忠利の娘)が開基となり、松平家の菩提寺となった臨済宗妙心寺派の寺院
家祖 松平忠明の事蹟
家祖松平忠明は、慶長19年(1614)12月の大坂冬の陣に、慶長20年(1615)4月の大坂夏の陣に参戦した。この戦功により戦後の大坂の復興を任されている。初代大坂藩主として第一に、安井道頓が着手していた堀川の開削で後に「道頓堀」と命名して今日に至っている。
三方領知替え
三方領知替えとは、三大名家がトライアングル式に領地を移動する転封のことで、江戸時代を通して12回発令されている。転封の理由は「領地の加増や出世」、「大名の希望」、「幕府による懲罰」などがある。文政6年(1823)の三方領知替えは「大名の希望」から発令されたと考えられている。
白河藩 松平越中守家の事情 松平定永は「伊勢国桑名」で生涯を終えたいとの父、松平定信の希望を転封願として幕府に提出し続け越中守家の悲願であった。同時に遠隔地の任務「房総半島沿岸警備」は多大な負担を強いるもので、何とか解任してもらおうとの思いがあった。
桑名藩 松平下総守家の事情 松平忠堯は藩政に落ち度なく7代114年間領有した土地を離れる理由はなかったが、幕府の命ということで拝命した。白河と桑名は同様に交通・商業の要衝にあったが二家の交換転封では松平下総守家に減益が大きいとして穀倉地の武蔵国忍藩が選ばれた。
忍藩 阿部家の事情 藩主阿部正権は病弱で文政5年に「将軍初御目見」の延期願いを提出する。武蔵国忍は非常時には幕府を軍事面で支える役割を持ち、重要な地点の藩主の病弱と藩内統治がままならない状況から、阿部家を陸奥国白河に移し、ここに松平下総守家を入れることとして三方領知替えが発令された。
江戸湾の防衛
天保13年(1842)8月3日第11代忠国は、幕府から上総富津から竹岡に至る江戸湾警備を拝命した。幕府は米国ペリーの来航に備え砲台の建設を行い、忍藩は品川警備として第三台場の警備も任ぜられている。
戊辰戦争
戊辰戦争は慶応4年(1868)1月3日から明治2年(1869)5月18日までの内戦である。第11代忠国は早い段階から新政府への恭順を示し、忍藩として「白河口の戦い」に出兵している。「白河口の戦い」は慶応4年(1868)4月から7月に新政府軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩)が奥羽越列藩同盟軍(仙台藩、、会津藩、米沢藩、棚倉藩、旧幕府歩兵隊など)と磐城国白河城をめぐる戦い。
江戸時代の生活について
江戸時代の200年間は、人口が1,000万人から3,000万人へと世界に類のない増加を示した。この背景には、今も残る「思いやりの表現」に見る江戸しぐさ、「五人組制度」に見える責任の反面互いに工夫をして助け合う人間関係が成立した互助・共生の知恵と信頼関係があり、自給自足の経済下で分相応の生活をする、足るを知るという考え方があった。
江戸時代の教育について
教育制度は藩校、寺小屋、私塾に代表される。藩校は諸藩の藩士やその子弟のために設立された学校。武士社会の男子は古典(四書五経)を学び、昼は藩校で文武に夜は私塾に通う習慣だった。寺子屋は町民、農民など庶民の教育施設で読み書きそろばんが教えられていた。私塾は藩校や寺子屋の中間的な存在で「私立」の教育施設。
忍藩 進脩館
移封2年後の文政8年(1825)に創設され、漢学、国学、書道、算術、兵学、武術、砲術など多岐にわたる学習が行われた。命名は桑名時代の藩儒平井澹所で、由来は易経の「乾の卦の文言」にある「君子進徳脩業、欲及時也」から「進」と「脩」を取っている。埼玉県立進脩館高校として藩校名が残る数少ない例である。
忍郷友会について
第14代松平忠壽が日露戦争から凱旋したことを機会に地元行田市在の青年団などが創設し、本年「120周年」となる歴史ある団体。会員数は240名。活動の目的は地域社会、国家に役立つ人材育成教育の支援、知徳の涵養と人格の向上、そして一燈照隅の思いで行政の出来難いことの支援。
今 求められるものは
目を見て「好き」と言う、これが効果がある。”アナログ”を使うこと。「違い」とは「距離」のこと。違うことを思う、距離を乗り越えて理解する。絆がつながる。
皆様へ「四つのキーワード」
志:夢、希望、志を立てて前に進むこと。先ずは志を立てることが重要なこと。
学ぶ:自分を磨き、学ばないと前には進めない。志を立てて達成するために学びをする。
愛:学ぶ道具、環境を作るものが愛。学ぶ機会の提供が愛。
感謝:愛があれば、志も学びも、うまく行く。愛の提供を惜しみなく。最後は、「感謝」。
全ての事が回っていることに感謝の気持ちを失ってはいけない、と切に思った今日でした。
(広報交流委員会 田島)