近くにある小さな江戸②

第2回目は羽生市の大天白神社境内にある下総の国佐倉藩の飛地 二代目藩主堀田相模の守正順(まさなり)の生祠

10月のとある日、羽生市役所に車を置いて、北西に進路をとり忍城羽生陣屋跡(現在の高山稲荷神社)を見学し、利根川を源とする葛西用水路沿いを西へ30分ほど歩くと左側にこんもりした杜が現れます。藤で有名な大天白神社(羽生市北2丁目8-13)です。

この神社は弘治三年(1557)羽生城主木戸伊豆の守忠朝の夫人が安産祈願のため創建される。その後「戦国時代~桃山時代」上杉氏(木戸)と北条氏(成田=忍城主)の数度の合戦により社殿は焼失したが、里人の勧進により再建された。以来、安産・子育ての神様と信仰されています。

葛西用水路案内板

葛西用水路

忍城羽生陣屋跡(現在の高山稲荷神社)

大天白神社

絵馬

そんな境内に、下総の国佐倉十一万石(現千葉県佐倉市)の城主の生祠がある。正順は宝暦三年(1753)藩主となり江戸幕府の要職を16年間勤めた。佐倉藩の領地は遠隔な飛地が多く、当地箕沢村は宝暦十三年(1763)に佐倉藩の領地となる。

この生祠は明和八年(1771)領主崇拝として建立され、度重なる利根川の氾濫にもかかわらず現在に至っています。

生祠とは:『功徳のある人を死後を待たずに生きているうちから、神としてたてまつったやしろのこと。』

堀田相模の守の生祠説明文

石碑

江戸幕府の政策により各藩も領地替えを強いられ、それによりあちらこちらに飛地(領地)を持っていました。

忍藩も秩父・鉢形(寄居町)・柿木(八潮市)・伊勢(四日市)・播磨(神戸付近)等も陣屋を有し飛地の管理をしていました。また幕末には、英中のアヘン戦争の影響により幕府は交戦を危惧し、江戸湾沿岸の警備強化を計る。忍藩は安房房総の警備を担当、最高時は富津に陣屋を置き63,000石の藩領となった。その後ペリー来航により、品川沖の台場建設に忍藩、川越藩、会津藩の三藩が担当、今、若者で賑わう第三お台場を忍藩が警護すようになりました。

その時代毎に領地の変換によって、飛地も変化をしていたと思われます。今では考えられない程の武家社会の優位性が、地域社会の生活をも左右しているのが明らかになって、感慨深く思います。

参考までに忍藩飛地の秩父陣屋跡(現在の秩父地方庁舎)の写真を添付します。

秩父地方庁舎

陣屋跡案内板

 

5期 寺田 記

コメントを残す

次の記事

晩秋のさきたま古墳