旧東海道品川宿をぶらり散歩

グループ活動として、初めての電車移動で品川宿へ。行田駅を9:00集合で出発 今は上野東京ラインで乗り換えなしで品川駅へ。京急電車に乗り換え一駅目、北品川に到着。

いよいよ旧東海道をぶらり散歩 総勢7名で元気に行こう。

説明板は字がかすれていて読めないが品川宿入り口の石標がありました。

旧東海道の現在の様子

先ずは、北品川よりの案内所へマップを戴きに。行けども案内所なし。後で聞くと土・日曜日のみの開店で今日は火曜日。

まず最初に出会ったのは、問答河岸の碑

次は、善福寺の伊豆の長八のこて絵(江戸末~明治初期の左官職人)

善福寺

伊豆の長八のこて絵

今度は、日本橋より二里の碑がある品海公園へ。新しい案内板、石碑なので ややがっかり。

東海道品川宿の石垣石の説明板

海岸の方向へ下って、御殿山下砲台(台場)跡へ。それは台場小学校の正門。“嘉永六年(1853)アメリカのペリー総督が4艘の軍艦(黒船)を率い開国を求め浦賀に来航。日本は大騒動になり、幕府は江戸の街を守るために、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11台の台場(砲台)を作ることにした。1・2・3・5・6台場は完成したが残りは、途中中止及び着工せず。その代わりに陸続きの御殿山下台場(砲台)が作られた“ 砲台跡にしては、灯台の形をした白と黒との塗り分けをしたものが建っていました 想像してたものと違っていますネ。

説明板

砲台跡

いよいよ品川宿本陣跡へ。“品川宿は江戸四宿の一つで東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した” ここがその本陣跡です。今は広い公園になっていて隣が幼稚園で、大きな声がこだましていました。

目黒川手前、品川宿交流館本宿お休み処に寄る。

昔の駄菓子屋風のレトロな感じが凄くいい。ラムネを40円で買って飲む。10円から70~80円の品物で昔をなっかしく思い出す。スバラシ~い時間を過ごす(グループ員も年齢を重ねているので共感する)

品川橋を渡り目黒川を越える。いつもテレビで桜の時期に見ている川はここ? と聞かれたので、川は一緒だけど ずーと川上の方。なーんだ道理で桜がないのだ。

品川橋の説明板に見入るメンバー。

しばらく歩くと 問屋場跡が信号の所にあるわけだけど? やっとありました。(株)製菓実験社の壁に貼ってありました。よかった。

そろそろ食事。青物横丁まで行けば、食事処は多くあるとの情報。でも、すぐ前に“そば処 宝㐂家” がある。老舗でいいじゃない。

お店の前でメンバーが揃うのを待つ。

中へはいる。おのおの好きなものを注文する。今日は、運転しなくていいのと暑いので、恵比寿生ビールを男性3人が追加注文する。女性4人の方すみません。

美味い! メニューを見ると、日本で最初のビール(品川懸麦酒)の文字が目に入る。どーしても飲みたい。 飲んでみると、恵比寿生ビールの方が美味いかな~ 他の2名も同じ意見。

誰とは言わないが男性陣の中の一人はすでに、電車の中で焼酎ワンカップ1缶半を飲んでいたとことが分かった。驚きだ!全然判らなかった。これが電車旅の良いところかな。

お店の中に面白い人生訓が。。。 なるほど納得。

途中、開校明治7年品川区立城南小学校の看板あり(現在は工事中)。

次は、品川寺(ほんせんじと読む)江戸六地蔵の一つで、300年前に建立。奥に入ると、やや色落ちした極彩色の弁財天。

地蔵菩薩坐像

品川寺のイチョウ – 品川区指定天然記念物、山門脇にある、推定樹齢600年の大木。

第一京浜(国道15号線)を渡り岩倉具視の墓所。海晏寺へ行くも見つからず。坂を上って裏側の道から入るらしいが疲れが出てきたので諦めることに。。

これからどうする? 

青物横丁駅から電車で大森海岸駅まで行き、江戸二か所の処刑場の一つ鈴ヶ森処刑場へ。丸橋忠也(由井正雪と共に江戸幕府転覆計画に加担斬首)、八百屋お七(江戸本郷の八百屋の娘、恋人に会いたい一心で放火、火あぶりの刑に処される)、平井権八(歌舞伎:白井権八 熊谷土手で追剥ぎ=権八地蔵)も獄門。

広い道路に挟まれた一角に鈴ヶ森処刑場遺跡がある。

鈴ヶ森処刑場遺跡の標識

火炙台 処刑者はこの石の上で焼き殺された。

礫台 真ん中の穴に柱が立てられその上部に縛り付けられて刺殺された。

首洗の井 斬首した首を晒す前にここで血を洗ったらしい。今は金網で蓋されている。

 

”鈴ヶ森刑場遺跡”

嫌だ嫌だ! ちなみにもう一か所の処刑場は、三ノ輪にある小塚原処刑場。

一応、途中電車の力を借り、東海道品川宿走破。約2万歩くらい歩いたかな?

大森海岸駅から品川駅に戻り、帰路に就く。

皆さんお元気です~ね~

五期 寺田(記)