千人同心道 間(あい)の宿~忍宿~川俣宿散歩
今日は、千人同心道 吹上 間(あい)の宿から忍宿を経て川俣宿(冨士山供養一里塚跡)まで8名で散策しました。天気予報では晴天ぽっかぽっかの良い日とのことでしたが、どんより曇り空 肌寒い日でした。
1.吹上 間(あい)の宿
今は、JR高崎線が街の真ん中を走り、旧千人同心道を分断しており、往時の町の喧騒、車の通りも減少し静かな住宅、商店街になっています。また高架が進み20年ほど前にあった踏切も閉鎖となり、南北の往来もできなくなっています。
吹上 間の宿・吹上神社:中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「あいの宿」として発展した町ですが、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかかわらず.重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの千人同心道(日光火の番道)と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や、馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」とあります。また、浮世絵師池田英泉の岐岨街道鴻巣吹上富士遠望に富士山がくっきりと描かれている。
吹上神社御縁起:吹上は、北足立郡の最北端に位置し、その地名については、風で砂が吹き上げるところから生じたものとの説がある。中山道と千人同心道が交わることから、交通の要衝として繁栄した。山王社(上分の鎮守)、氷川社(小名遠所の鎮守)稲荷社(下宿の鎮守)明治四十年四月三社が合祀され、吹上神社と改称した。
2.佐賀橋
吹上神社から旧道を道なりに行くと、鳥正肉店の角にでる。そこが中山道と千人同心道との交差地点です。現在の江戸前廣鮨を北へ進むと幅の狭い佐賀橋に出ます。かなり小さな橋だなーと皆で話をし近辺の散策をしました。西へ50mほど西に歩いて行くと、土木遺産(施工昭和8年)認定の新佐賀橋があります。
エピソードとして、かつて行田市にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が橋を渡るため豪華な外観に仕上げられたと伝えられる。
新佐賀橋の現在は、派手なピンク色に橋の全体が塗られているので、多少違和感が.あった。
3.がんがら落とし
佐賀橋から北へ真っすぐ進むと、17号バイパスに突き当たる。そこを越えて上越新幹線が見える当りまで行くと、がんがら大橋の変わった親柱が見える。橋の歩道左右の真ん中に、かってここを運行してい行田馬車鉄道の様子を描いた、プレートがはめ込まれている。
がんがら落とし:がんがら落としは延長約4kmの農業排水路。
雁柄橋:行田道に属す 鎌塚村の界六反沼落堀の上流に架す 長さ5.5m幅3.6mの小規模の石橋であった。
行田道:中山道から北へ分かれ鎌塚村、前谷新田、持田村を経由して行田町へ至る街道だった。
ここから先は、朝日バス前谷経由行田車庫行の道路に準ずる。
4.佐間天神社
がんがら落としから新幹線をくぐり、右へむかつて行くとしばらくすると、行田水道局の昔風の建物を右手に見て、新17号バイパスを横切る。新兵衛地蔵尊の道標をみて次の信号を右折すると水上公園を経て正木丹波の守のお墓がある高源寺にでる。この辺りが日光裏街道(鴻巣市中山道箕田追分から三ツ木の山王さん、石田堤、下忍一里塚を経て佐間経由で)と千人同心道と合流した場所。そこから10mで佐間天神社に着く。
佐間天神社:天神社は、忍城主の成田氏が築城の際に城の出口にあたる当地に創建されました。創建当時より佐間村安養院が守護神として別当を務める。明治22年佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり社務所内に佐間学校が開校した。境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。また、境内の裏庭には忍川、天籟橋の石標があり、忍川の支流があったのかと想像されます。
5.彩々亭での食事
彩々亭でランチをいただく。約1時間半ゆったりとした気持、会話が弾み大変有意義な時間が過ごせた思いがします。また大正ロマンあふれる雰囲気に全員が満足しました。
6.川俣宿
食事のあと、高札場跡、本陣跡、行田馬車鉄道跡、横田酒造から秩父鉄道東行田駅の脇を通り、荒木から南陽酒造、新郷宿脇本陣須永家を見学し、川俣の関所跡を左折し利根川を渡り川俣宿に到着しました。
最初に利根川土手に登り、川俣の渡し跡を遠目にみて下り、川俣宿本陣塩谷家がまだ現存しているのに驚きました。新郷宿脇本陣須永家とともに往時をしのばせているのは大変貴重であり、大事に保存が出来ればいいなと素人ながら考えます。色々な街道を見学していますが現存する本陣、脇本陣は数えるほどで、歴史の証人としての価値があります。
川俣宿の歴史:川俣集落は、旧日光脇往還を挟んで、両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着き場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、水運の河岸としても栄えた。この道路は、江戸日本橋~鴻巣までは中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)-新郷-川俣-館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光までは例幣使街道と合流する。千人同心道、日光裏街道と重複しているため行田からは館林道と呼んでいる場合もある。川俣渡船場は、元和2年(1616)に、関東16渡津の1つに挙げられ、渡船者の厳重な取締が行われるなど、江戸防衛のための拠点とされていた。また年貢米、木材の積み出しの拠点としても機能していた。以上のように江戸時代に繁栄を極めたが、明治40年(1907)の鉄道の開通により、その役目を果たし、現在に至る。
川俣事件衝突の地: 川俣本陣塩谷家から歩いて10分弱の所に記念碑があります。
川俣事件は明治33年(1900)群馬県佐貫村川俣で足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警察官が衝突した事件。
足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の指導の下、農民たちが立ち上がり約2,500名が決起したとも伝えられる。
7.冨士山供養一里塚
川俣宿から大佐貫を通り矢島に入ると館林道の旧道に出る。その道を真っすぐ北へ進むと、左側に長良神社が見え少し行くとまた右側に2つ目の長良神社が出現する。(不思議?)その先20mに松の木が一本、石碑が一基たたずんでいる。用水路脇の松の木の下に「冨士山供養と彫られた石塔が建っている。富士講の一行から遅れて倒れた老人を供養塔にしたものと言われている。ここに一里塚があったとの伝承がある。
碑の左側に刻まれている「ふじの雪裾ひきあげて田うゑかな」という俳句の作者の曬翁とは川俣宿本陣の塩谷新八郎のことです。 田舎の一本道、何かうら寂しい街道。
8.阿弥陀三尊板碑
一里塚跡からの帰り道「明和町指定重要文化財 阿弥陀三尊板碑」の標柱があり、近くの家で聞くと家の裏にあとのことで、案内してもらった。8名でぞろぞろと!
鎌倉時代の永仁三年(1295)造という板碑には、上に阿弥陀如来、右下に観音菩薩、左下に勢至菩薩の梵字が鮮やかに彫られている。
ご主人の話では、道の傍に旧家が建っていて新築し移転した時に、現在に位置に移動したもの。標柱の位置からは多少距離があった。
はにゅう道の駅に寄り、3時半頃行田文化センターみらいに到着し、本日の歴史散策が終了。