江戸城歴史ウォーキングに参加しました。

3月31日(土)に旅行会社が募集した「江戸城歴史ウォーキング」に参加しました。当日、朝方は少し冷え込みましたが、日中は大変良い天気で歩くには絶好でした。春休みで行楽日和であったためか、東京駅は大変混雑していました。たびたびテレビで放映されている東京駅構内にある「駅弁屋」は弁当を買い求める人で大混雑。駅弁屋は、全国各地の有名駅弁を200種類以上取り揃えている駅弁専門店です。

*写真上でクリックすると拡大写真になります。

東京駅前に集合した「江戸城歴史ウォーキング」参加者は約50人と人気ぶりに驚きました。一見して熟年の方が多かったように思います。

案内してくれたガイドはスポーツマン風の中年男性でしたが、自ら旅行会社に歴史ウォーキングを提案して実現した企画だったようです。江戸城の歴史を裏話も混じえて説明してくれたので、最後まで飽きずに楽しくウォーキングできました。

当日の江戸城周辺は、皇居乾通り一般公開の最終日前日ということで大変な混雑で入場を待つ長い列ができていました。今回の歴史ウォーキングは皇居東御苑でしたので入場するのに待つ必要はありませんでしたが、やはり多くの人出で賑わっておりました。大手門の入り口付近で手荷物チェックを受けてから入場しました。まるで空港のようです。また、外人旅行客の多さにも驚きました。

ウォーキングコース

JR東京駅丸の内中央口集合→二重橋→桔梗門→桜田二重櫓→大手門→同心番所→百人番所→中ノ門跡→大番所→中雀門→本丸跡→富士見櫓→松の大廊下跡→富士見多聞→石室→天守台→北詰橋門→北の丸公園(弁当配布・解散)

歴史ウォーキング散策マップ

江戸城歴史散歩資料

募集要項には、歩行距離5.2kmとなってましたがもっと距離があるような気がしました。ガイドの歩く速さが結構、早いので私にはちょうど良かったのですが、参加者の中には愚痴を言ってる人もいました。

ではガイドが案内してくれた順に概要を説明します。

東京駅丸の内側赤レンガ駅舎の中央部分は、天皇陛下と皇太子の東京駅内への専用入口でコンコースへは専用通路でつながっているとのこと。

新任の外国大使が天皇陛下にあいさつする「信任状捧呈(ほうてい)式」で、大使が赤れんがの丸の内駅舎から馬車で皇居に向かうルートも復活することになった。馬車列の運行予定につきましては、適宜 宮内庁のホームページで知らされます。

下の写真の赤丸のところが天皇陛下の専用入り口

途中、明治生命館の説明がありました。明治生命館の建物は建築当初のものがそのまま残っており、重要文化財になっているとのことです。

明治生命館(ホームページから引用)

明治生命館が竣工したのは、1934年(昭和9年)3月のことです。戦時中の金属回収、東京大空襲、そして終戦後にはアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用するためにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会(ACJ)の会場として使用されるなど、昭和の激動を乗り越えてきた明治生命館には、そのすみずみにまで時代の記憶が刻印されています。明治生命館では1階店頭営業室や、対日理事会の会場となった2階会議室をはじめとする執務室、応接室などの文化的価値の高い主要室をご見学いただけます。また、資料・展示室にて明治生命館の建築、明治生命館の建設に携わった人々、明治生命館の歴史についても詳しくご紹介しています。さらに明治生命館に関係する史資料のデジタル閲覧サービスもご利用いただけます。

江戸城

江戸城は麹町台地の東端に扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。なぜこの地に城を建てたのか?ガイドの説明によれば当時の東京湾はこのあたりまで海と湿地が広がっていて片側が海で敵からの攻撃に強いために選ばれたとのこと。

桜田門(渡櫓門)越えに国会議事堂が見える。桜田門は2つの門からなり、第一の門(高麗門)、を通ると枡形の空地があり、右折すると第ニの門(渡櫓門)になります。

国会議事堂の敷地は江戸時代は広島藩浅野家中屋敷があったところ。また、彦根藩井伊家上屋敷は、国会前庭北地区(憲政記念館等)があったところ。井伊大老の屋敷から江戸城までは非常に近いが、登城の途中、桜田門外で暗殺されました。

二重橋

現在の二重橋は手前と奥にある橋を含めて二重橋と言っているらしいが、江戸城の頃の二重橋はまさしく上下で二重になっていたそうです。下の写真のように想像図で説明してくれました。

【環境省のホームページから】

皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。 「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋を指します。 奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がつきました。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたものです。 これらの橋は、通常は使用されず、 新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されます。

江戸城の頃の二重橋

現在の二重橋 わかりにくいですが、手前の橋の奥にもう一つ鉄橋があります。

富士見櫓

江戸城旧本丸の東南隅に位置する現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。

桜田二重櫓

櫓の中には有事に備えて、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていたという。 白亜漆喰総塗込めで、出窓状の突き出しが石落とし、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。

内桜田門(桔梗門)

ガイドさんの説明によれば大名などの登城は、大手門と内桜田門(桔梗門)と定められていました。元旦から三ケ日恒例の登城は、位階、格式によって本丸大手門や内桜田門から登城する。元日の六つ半(午前七時)に大手門より御三家・御三卿・譜代大名・加賀前田家・表高家などが登城。二日は五つ(午前八時)に御三家・御三卿の子息・外様大名・従五位の幕臣・神官・御目見以上などが年始の御礼に内桜田門(桔梗門)から登城する。三日は五つ(午前八時)より、無位無冠の大名・寄合・非役の御目見などが年賀を述べに登城する。

大手門

旧江戸城の正門で、大名はここから登城していました。

(下の写真は、皇居参観ガイドの写真から転載)

大手門(渡櫓門)

石垣との間を渡すように門の上に櫓が建てられることから渡櫓門と呼んでいる。櫓は有事の際の武器、弾薬、食糧の蔵となっている。

百人番所

百人番所は、本丸と二の丸へ通じる要所である「大手三の門」を守る大切な番所でした。 本丸大手門(大手三の門)の渡櫓門石垣の間を抜けると、百人番所。
数少ない江戸時代から残る江戸城の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、鉄砲百人組が有事に備えて詰めていました。

警備を担当したのが、徳川家と縁故のある甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、廿五騎(にじゅうごき)組。当然のことながら昼夜交代で詰めていました。
与力20人、同心100人が詰めていましたが、各組の同心100人が配備されたのがその名の由来となっています。

中ノ門

石垣用の石の大部分は伊豆から運ばせたそうです。特に伊東はその中心的な場所にあたり、 家康から命ぜられた各大名は石丁場(石の切り出しを行なう場所)を設けて盛んに石を切り出し、江戸へと運んでいきました。白い花崗岩は、瀬戸内海沿岸から運ばれたもので、西国大名から献上されたものとのこと。また、西国大名は豊臣ゆかりが多かったため、その力を弱める目的もあったようです。

大番所

番所とは警備の詰所で江戸城内の番所のうち、百人番所、同心番所、大番所が現存しています。

中雀門跡

本丸に至る最後の門が中雀門(ちゅうじゃくもん)。ここが本丸・表御殿の玄関門となります。大手三の門、中之門を駕籠(かご) に乗ったまま通過を許された徳川御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩)も、この門では駕籠を下りなければなりませんでした。この門は、文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。

本丸御殿

皇居東御苑内の広々とした芝生が広がる場所は、江戸城の本丸跡。表御殿、中奥(なかおく)、大奥に分かれ、表御殿は、諸役人が執務する幕府行政の中心機関で、将軍の謁見なども行なわれた建物。有名な「松之大廊下」もここにありました。

ここで江戸城大奥のチョットした話を。

大奥の御台所(正妻)・お部屋様はトイレの使用後………共の者に拭かせていた。将軍でさえ後始末は自分でしたのだが、御台所やお部屋様がトイレに行く場合はお供の御中臈が付き添い、一緒にトイレの中に入りお尻の後始末をしたという。なお、トイレは深さ数間もある深い井戸で使用者の一代の間、汲み出すことはなかったという。将軍が代わり御台所が代わると前のトイレの穴は埋めて、新しいトイレの穴を掘るのだそうです。

富士見櫓(江戸城内から見た画像)

天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。

松之大廊下跡

本丸跡左手の現在は木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所) を結ぶL字形の廊下がありました。これが「松の廊下」です。 ここが「忠臣蔵」で有名な元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です。 上野介は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、内匠頭はその日のうちに切腹となりました。

「松の廊下」想像図

刃傷事件が起きた場所はこの辺り。

石室

この石室の用途は明らかではないが、中奥と大奥との境の中奥側の上御納戸の脇にあったので、将軍の衣服や装束・調度などを、火災などの非常の際に収めた収蔵庫ではないかと考えられている。

天守台

【千代田区観光協会ホームページより】

江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。

慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸改造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。しかし、平成になってこの天守を再建しようという動きも出てきています。

天守想像図

現在の天守台

北詰橋門

天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。 また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。 現在は、皇居東御苑へは大手門、平川門と同様に、ここからも出入りができます。

この辺りは石垣が高いです。

竹橋御門

竹橋御門は、旧江戸城内曲輪15門の一つで天正18年、徳川家康江戸入国の頃、「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられているが、他にも諸説あり、竹橋の架設時期と併せ、いずれも定かではない。
 御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3年再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。沿道の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は、都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進気運を高め、親しまれている。
 現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設され、平成5年3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにした。

竹橋御門付近から平川橋方面を望む

清水門

【国指定重要文化財】 寛永元年(1624)助役大名,浅野長晟により建てられた枡形の城門。扉釣具の銘には万治元年(1658)とあるが,これは江戸城の総曲輪の大工事を行ったついでにこの門を修復した年であると考えられています。 門名については,昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれています。

北の丸公園付近で弁当を渡されたのですが、ここでトラブルがあったようで旅行会社の女性が弁当の数が足りなくなったと言っておりました。弁当を配る時に今回のウォーキング参加者かどうかの確認もせずに渡していたので大丈夫かなと思いましたが、やはり問題が発生。当日は混雑しており一般の方も多く歩行していたので無料で配布しているのかと思ったのか、知っていて貰って行ったズルい人がいたのかわかりませんが弁当が1個足りなくなったとのことでした。仕方なくガイドの分の弁当無しとなったようです。

この後、北の丸公園で自由解散となりました。配布された弁当を食べてから田安門から出て千鳥が淵の桜を見学に行きました。

田安門

北の丸公園の日本武道館への入口に位置する門。太田道灌築城時代の江戸城では、この場所が田安口(飯田口)で、上州(現・群馬県)・北関東方面への街道の玄関口となっていました。江戸時代初期、江戸城の総構が完成した時代の門が奇跡的に残され、国の重要文化財になっています。

千鳥が淵の桜

解散後、北の丸公園のベンチで弁当を食べた後、個人的に千鳥が淵の桜並木を散策しました。桜が散り始めている千鳥が淵は、最後の花見を楽しむ日本人、外国人が入り乱れて大混雑でした。何時間待てば乗れるかわからない貸ボート乗場前には大行列ができていました。

水面は、ところどころに散った桜の花ビラが花筏になっていました。

千鳥が淵から再度、江戸城に入り東京駅に戻ってきました。

おわり

 

 

 

 

 

 

 

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丸墓山の桜が満開です。