東松山散歩 

今回(H31.3.6)は急な計画だったので総勢4名と寂しい散策ですが、近くにある小さな江戸を含めた街歩き、小高な山歩きと充実した内容で皆さん満足。

最初に東松山市役所に直行。玄関脇にある、オランダ王国ナイメーヘン市との姉妹都市提携記念碑(1996.7)(おそらく、世界歩け歩け運動の一環として)の前で記念写真。人数が少ないので、セルフタイマーにて全員撮影。

すぐそばに、岐阜県根尾村の淡墨桜(国指定天然記念物)の苗木の植樹が数十年は経っていると見え、かなりの大木になっています。桜の咲く時期に、もう一度来てみたいと女性グループ員が言っていました。

前橋藩 松山陣屋
幕末には、市域の約半分の領地は川越藩の管理下にあったが、慶応三年(1867)藩主松平直克のとき前橋藩に帰城するにあたり、前橋藩の飛地となり六万二千石として、松山陣屋が置かれた。明治四年(1871)の廃藩置県により役割を終えました。

松山陣屋跡石碑

次は、徒歩で県立松山高校へ向かう。間もなく高校に着き、受付で許可を得てゼッケンを胸に松高記念館を見学。東松山市の名木”イトヒバ“が凛として出迎える。

松山高校(創立大正十一年1922)の歴史に触れる。大正モダンの素晴らしい校舎に、深谷商高記念館を思い出します。

埼玉県立松山高等学校&記念館

玄関内部に深谷市出身の明治時代の実業家、渋沢栄一氏(1840〜1931)が昭和4年に来校して、当時の生徒たちに贈った自筆書が飾られています。

2階の資料室で、敗戦間際の県内軍事施設と空襲被害の掲示に見入る。行田も空襲被害を受けています。

各部活動報告もあり、部活動の数の多さと充実した内容に名門校の歴史を垣間見る事ができました。

記念館前でも記念撮影しました。

物見山へ。行きながら2回ほど道を間違え、慌ててカーナビゲーションを操作。こども動物自然公園、埼玉ピースミュウジアムを横に見てまずは物見山の頂上へ。天気がいまいちのため、景観は得られませんでした。

次は岩殿観音(正法寺)へ物見山側より入山。物見山の頂上から下がって地下道を通り、まず現れるのは根が異常に絡まる根回り11mの大銀杏。

坂東札所10番正法寺本堂に岩殿観音が鎮座しています。鎌倉時代末期の創建で、銅鐘、薬師堂、鐘楼など史跡も豊富です。

境内をめぐる石崖には小さな石仏が安置されています。四国八十八ヶ所の写本尊であり、四国八十八ヶ所を参拝したのと同じ御利益が得られると言われています。

石仏群

また、仁王門からの家並みは門前市偲ばせる。仁王門から延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、かつての正法寺と門前町の繁栄の面影を残しているが、実際に商店の建物のまま残っているのは丁字屋旅館(江戸時代から昭和初期まで営業していた)と向かいのうどん屋のみとのことです。

眺め歩いて15分程の所に、文化財の六面憧(ろくめんどう)という緑泥片岩でできた、摩訶不思議な鎌倉から室町時代の供養塔?があり、一片が剥がれており管理状態は良くありません。興味のある方は、岩殿観音、六面憧を見学してみては!

 さて時間もきたので、食事。女性陣が近くにある大東文化大学東松山キャンパスの学食が食べたいと言い出し、大東文化大にて交渉・・・・・結果OK。2Fの学生食堂へダッシュ(13:30終了、残り25分)
かつ丼:410円、かつカレー:420円
美味しかった~~♪  食堂の皆さまご馳走様でした。

かつ丼とカツカレー

 

少し場所を借りて、打ち合わせ。 

満腹になったところで、弁天沼(鳴かずの池)を見学。昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼ができたといわれ、カエルが住まないので「鳴かずの池」と呼ばれていると伝えられています。

弁天沼のほとりの梅が満開でした。

最後に足利基氏の累跡を見学。南北朝時代に活躍した足利尊氏の次男として生まれる。
この館跡は、反乱をおこした芳賀高貞と「岩殿山の合戦」を行った時、本陣が置かれた可能性が高いと思われる。現在は、水田となった水堀が往時の面影を伝えています。

帰路につき途中、コーヒーショップに寄って一息つく 。

KoKoカフェ

 

5期:寺田  撮影:田村